東日本大震災から4年。2011年3月11日。発生から3日
2015年3月11日
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2015年3月11日。11時13分。東日本大震災から4年になりました。
あの時私は、県議会から歩いて北仙台の避難所の中学校に向かいました。いつもは車で通る道を歩いていると真っ暗な中にかすかに聞こえるラジオの音、時おり余震の中驚くほど灯りのない仙台の中心部の静けさ、「今みんなどうしているのだろう。」と雪がちらつく中向かいしました。途中一人暮らしのお宅に立ち寄り返答がないので避難所へ向かったのかと思いながら急ぎました。
私の住む北仙台は仙台市内でも高齢化率が高い地域です。福祉委員を務めている私は、いつもサロンに通っている一人暮らしの高齢者のみなさんは大丈夫なのか。ストーブもなく寒さに耐えられるのか、など不安が広がりました。
議会から40分。避難所について子どもから高齢者の皆さんが多く避難していいました。元の消防団のメンバーが発電機、毛布が足りない。と物資の調達について時おり声を荒げて話していました。体育館では、町内会長さんが地域の旗をもっていました。しかし、取り仕切りがなく不安と困難の中にありました。
この日から避難所でできることを始めました。
内陸部、高齢者齢者が多い地域で、東日本大震災から発生してから避難所の運営、閉鎖する最後一人までの支援活動を綴ってゆこうと思います。
「ことわらない避難所にしよう」これが避難所の目標と考えました。物資もない、燃料もない中で地域で支え合うことで乗り切ろうと考えたのです。避難所の地域の子育て中のお母さん、ご夫婦、地域の男性、が中心となって炊き出しをすることになりました。
最初のお願いは「みなさん家にあるものを持ちよってくださいますか。」でした。2日目、宅地被害で傾いたアパートから米、石油を持ってきた若い女性。「これ使ってください。」「ありがとうございます。」
それから持ち寄りの炊き出しが始まったのです。おにぎりは、みんなでにぎろう。一列になって、ラップに手を広げご飯をにぎり箱に入れてゆくのです。子どもから高齢者まで避難所のみんなが参加しました。