青野 登喜子さんの追悼演説

2007年2月13日(火)
 12月23日の午前中、議会秘書課の伊藤さんから青野さんが午前7時37分にお亡くなりになりました。との突然の連絡を伝えられ、1年のうちに長谷川あきらさん、青野登喜子さん 県議会で、かけがえのない方が…と思わず言葉を失いました。
 青野さんの所属する保健福祉委員会の副委員長の外崎ひろ子さんとお見舞いにいきましょう。と話をしている矢先でした。
 12月27日 青野登喜子さんの告別式が行われ、多く皆さんが参列され葬送の辞では、青野さんのこれまでの活動や早過ぎるお別れを悲しんでおられました。「さようなら青野登喜子さん」と記された次第の表紙には、青々とした田んぼの中で、未来を見つめる優しい目の青野さんいらっしゃいました。
 宮城町議4期、仙台市議3期、県議2期努めてこられ「いのちと暮らしを守る」信念のもと、私たちに多くのことを教えてくださいました。

 青野さんが2006年の7月にお書きになった「思うこと」から

 議員になって34年が過ぎました。自分にとって、議員は過分な仕事と思っています。わたしを支えてきたのは、多くの人との数え切れない出会いでした。政治に何を求めてゆけばいいのかを教えられ、それにこたえるため、努力 努力の一念できました。議員になったばかりのころでした。道路に面した部屋で、いつもふとんの上に座り、窓の外を見ているおばあさんがいました。歩くことができませんでした。障害者年金が受けられるようになったときの、あのおばあさんのうれしそうな顔を、わたしはずっと忘れることができません。
 議会の壇上に立つとき、思います。人びとの生の声を代弁しよう。そんな議員でいよう。この道を迷わず歩いていくつもりできます。これからも働かせて下さい。

 と記されていました。病気を克服して県民の負託に応えよう という青野さんの強い決意を感じました。 これまで取り組まれてきたこと等県政において青野さんがお力か必要なときにと大変残念でなりません。
 青野さんとの出会いは、県内自治体の超党派の女性議員でつくる「みやぎ女性議員のついどい」で、男女共同参画社会の実現や、子育て介護などを研修会、知事や市長への要請などで一緒に活動をしたのがはじまりでした。その後、県議会の青葉選挙区から立候補をされ、女性の力を合わせでがんばりましょうと声を掛け合いました。県議会史上誕生した女性議員は昭和38年、西村ちよこさんが初当選され、沖直子さん、村上としこさん、坂下康子さん、私、青野登喜子さん、外崎ひろ子さん、歴代6人目でした。

○私は、議員になって結婚、出産と初めてのことに、忙しさのあまり子どもとの時間が少ない などの悩みを相談すると「私も町議会議員のとき、子どもをおんぶして自転車で活動したのよ。」子どもは、お母さんを良く見てるから大丈夫、大丈夫といつも励ましてくださいました。

○議員の産休制度を求めているとき、これから県議会に女性が政治に参画すためのハードルをなくすためにも、各会派のみなさんに理解と協力をもらいにまわりましょう。と坂下康子さんとともに会派周りをしてくださいました。県議会の規則にこれまで欠席理由が、公務や疾病から「出産」も新たに明記され、これがのちに全国都道府県議会の標準規則になりました。また、妊娠中の教職員の代替の配置について要請し、実現することができました。

○男女共同参画条例づくりの際には、前文に「すべての個人は性別にかかわりなく、人として平等な存在であり、互いの人権を十分に尊重しなければならない」、また、第十条に「農林水産業」とともに「自営の商工業」の分野において女性が主体性を活かし、その能力を十分に発揮し、正当な評価を受け、対等な構成員として方針の立案及び決定の場に参画する機会が確保される社会を実現するため必要な環境を整備する。」を共に働き 条例に盛り込むことができました。3年前の12月始めのころ子宮がんが見つかり、1年余の闘病生活をへて、昨年の3月に、議員活動に復帰されて、保健福祉委員会でも障がい者自立支援法、認定子ども園についての質疑をされ 常に『声なき声』の代弁者でいらしゃいました。そんな時、青森、長野、熊本で過去3回開かれた「全国女性議員サミット」を超党派の県内女性地方議員の呼びかけにで、今年、仙台で行おうという話が持ち上がり、宮城県では、もっと幅を広げて行おうと、県内の多くの女性団体や市民団体の方々にも参加していただいて、実行委員会形式で行い、名称も「男女共同参画社会の実現をめざす全国シンポジウム in みやぎ」としました。青野さんも当初から呼びかけ人となり、全体の運営に関わりかなりの時間と労力をかけまた、青野さんは、分科会の「高齢社会を支える男女の自立と社会保障」~団塊の世代と地域社会のこれから~ の責任者にもなり、パネリストの出演交渉から、準備、当日の運営と、他の実行委員とも連絡を取り合いながら、本当に精力的に誠実に働かれ6つの分科会のうち一番多くの187人を集めました。分科会報告も簡潔・明瞭な報告をまとめていらっしゃいました。

 テーマや分科会のもち方、運営のあり方などめぐり、当初はかなり議論に時間を費やし、そんな時、議員歴35年の青野さんの一言が、全体をまとめる大きな力となりました。 多くのみなさんとの協力により10月1日行われたシンポジウムは、県内はじめ全国から800名集まり盛会裏に終えることができました。「成功してよかったね。ゆささん報告書を届けておきました。」それが、私が聞いた青野さんの最後の言葉でした。報告書の結びには、「一人ひとりが自覚した人間として行動することの大切さが共通認識になった」と記されています。
 その後まもなく10月16日ガンの転移・再発が見つかり、再入院されました。 発病してから2年間病気の回復と議員生活に復帰することを目標につらい治療にも耐えていらっしゃいました。しかし、12月23日の午前7時37分 帰らぬ人となりました。次の日の12月24日青野さんとのお別れのため ご自宅を訪ねました。淡いピンクのスーツ姿の青野さんは、やすらかに眠っておられました。
 県議会改革の結果、議員提案の条例の中に、女性の視点、暮らしの視点を重視した具体的な政策の実現が可能なった今、青野さんの経験や実績を活かしていただきたかったと思います。戦後女性が参政権を得て62年。依然として解決すべき課題は数多くあります。青野さんがこれまで議会で主張されてきた、女性の地位向上と男女平等への実現をめざすこと、そして竹の内産廃の課題への取り組み、戦争のない平和な社会を築くことなど、青野さんの思いが大きな希望となって躍動し続けるよう努力を重ねることを心から誓います。
 青野さんの県政でのご功績は、県議会史上に永遠に残ることと思います。青野登喜子さん ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。

ゆさ みゆき